【PICKUPについて】

このコーナーはバレエナビが取材させて頂いたホットな話題を取り上げております。
バレエやダンスに関する人・商品・サービス・イベント・公演など取り上げさせて頂く話題は多岐にわたります。
ご期待ください!

PICK UP!

松岡伶子・松岡璃映 (松岡伶子バレエ団) インタビュー
~きちんとしたものを創れるバレエ団でいたい~

創立1952年と中部地区有数の歴史を誇る松岡伶子バレエ団。内外のバレエ・コンクール上位入賞者を輩出し海外でプロとして活躍する出身者も少なくありません。バレエ団公演も精力的に行っています。創立者・代表の松岡伶子先生、主任ミストレスの松岡璃映先生にバレエ団の歴史や運営方針、後進の指導に対するお考え、今後の展望をお伺いしました。

取材・文:高橋森彦(舞踊評論家)

 

指導にあたる松岡伶子先生
指導にあたる松岡伶子先生

-戦後まもなくバレエを始めて‐

松岡伶子先生がバレエを始めた頃のことをお聞かせください。
松岡伶子 中学1年生の時に終戦を迎えました。しばらくして戦後初めて宝塚歌劇が名古屋に来て「世の中には、こんなに美しいものがあるんだ」と感心しました。その頃上級生がバレエに誘ってくれたんです。宝塚のように綺麗だよと。田中義雄先生の名古屋バレエ・スクールに入りました。中学3年生の時です。そんな時代だからスタジオも焼けたビルでガラスが無くて寒いんですよ。初舞台は名古屋市公会堂での発表会でした。通し稽古もなく訳が分からない。皆より一拍遅れて踊っていたと母に言われました(笑)。その後、越智實先生が中京バレエ研究会を作られたので入ると、すぐに教えもするようになりました。

バレエで生きていこうと思われたのですね?
伶子 高校を卒業した年に上京しました。ホリデー・オン・アイスの日本公演を観て「ああいう風に踊れたら」と思いました。谷桃子先生が映画「赤い靴」の主役モイラ・シアラーから赤い靴をもらわれたのに憧れ谷桃子バレエ団に入ろうと。当時は八雲高校の講堂を借りていました。日本全国を巡業しました。男女合わせて23、24名の小編成でオーケストラも付きます。最初は『白鳥の湖』ばかりを何百回と上演し、2羽の白鳥とかナポリの踊りとか白鳥達を踊っていました。公演前に停電し、舞台の両袖で自転車を漕ぎながら発電してライトをつけたり、男性がロウソクを灯したりもしました。寒いのでカーディガンを羽織って踊ったこともありました(笑)。

谷桃子先生や先輩たちの印象は?
伶子 谷先生の踊りに対する執念、ただ踊ることだけを考えて舞台に向き合う姿勢には厳しいものがありました。気が向くと夜中でも稽古する。それくらい努力しないとプリマになれないんだろうなと。有馬五郎さんらも踊りに厳しく裏方さんにもうるさ型の方がいらして注意されました。良い勉強をさせていただきました。

松岡伶子バレエ団「くるみ割り人形」【撮影】むらはし和明
松岡伶子バレエ団「くるみ割り人形」【撮影】むらはし和明

‐バレエ団を創立し発展させる‐

いつごろから名古屋でバレエを教え始められたのですか?
伶子 時々名古屋に帰っていました。弟の友達が東京でバレエを習っていたのですが、親の転勤で来た名古屋でもバレエを習いたいと頼まれました。家の台所で教え始め、生徒が十数人集まると、父兄が幼稚園を借りました。巡業の合間に不定期で教えましたが、生徒が増え定期的に通うようになりました。金曜の夜に東京から夜行列車に乗って土曜の朝に名古屋に着き、土曜、日曜と教え、日曜の夜行に乗って帰る。月曜は谷バレエ団のレッスンに出る。そんな生活を何年もやっていましたが、娘(松岡璃映)が生まれると列車では大変なので車で往復しました。最初は国道1号線を走っていました。しばらくして東名高速ができ、やがて東海道新幹線が開通し列車での往復をしました。娘が大きくなると名古屋の母に預けて行き来しました。

バレエ団創立の頃のお話を聞かせてください。
伶子 最初の発表会は昭和31年(1956年)。不思議なことにバレエ団には最初から男性が居ました。バレエ団結成公演は昭和35年(1960年)の『シルヴィア』全3幕と『ピーターと狼』です。『シルヴィア』は服部・島田バレエ団公演を観て面白いと思いオーケストラ付きで上演。日比野愛次先生に指揮をしていただきました。

松岡伶子バレエ団「ジゼル」【撮影】むらはし和明
松岡伶子バレエ団「ジゼル」【撮影】むらはし和明

松岡バレエ団ではプリマとして踊られ昭和52年(1977年)に引退されました。
伶子 『白鳥の湖』が一番好きでしたが引退公演は『ジゼル』。ドラマ性があり、どちらも好きな作品です。当時は教え、踊り、プログラムを作り、広告を集めといった全てのことを自分でやらなければならず大変でした。私の出る公演のチケットはプレイガイドでも良く売れたんですよ。でも同年代のお友だちが踊っているのを観ると自分も年をとってきているのは分かる。父兄は綺麗だとしか言わないでしょ?お客様に綺麗なイメージを残して辞めたいという美学のもとに引退しました。

多くの支部教室を持つ中部地区有数のバレエ団・研究所ですが発展の経緯は?
伶子 拠点としていた今池の幼稚園が不景気になってなくなり稽古場を転々としました。父兄の1人が工業薬品会社の社長でした。市内に倉庫があるのは危険だということになって移転し空いたので改装して使いました。名古屋駅前の泥江町の一等地です。そこでしばらく続けましたが再開発の対象になってしまいました。すると別の父兄が千種にビルを建てるので、家賃を払えば稽古場を造ると申し出てくれました。皆さんの好意で続けられました。支部に関しては今独立している松原扶佐子と水谷訓子に稽古場を持たせたのが最初です。評判を聞いて色々な所から教えてほしいという依頼が入りました。こちらからはほとんど動いていないのに、いつの間にか増えました。

本部スタジオ外観
本部スタジオ外観

-団員・生徒への指導の心得-

ここから松岡璃映先生にもお話に加わっていただきました。

ご指導に関してのポリシー、気を付けていることは?
伶子 一番気をつけるのは注意をする時に相手を傷つけないことです。できないことに対してはあまり注意しません。でも行儀の悪い子はベビー・クラスから注意します。先生の話を聞けるのが一番大事ですからね。頭から叱ったりはせず傷つけないようにしています。救いのある注意じゃないといけません。今でも毎日初等クラスを教えていますが、そこがバレエを好きになるか嫌いになるかの分かれ道です。
松岡璃映 行儀よくなれば話を聞くことができるし注意を聞くことができる。その子が努力をしていれば「さっきより良かったね」という注意をするようにしています。褒められれば「頑張ってみよう!」という気になる。先生方でミーティングをする時に「叱る時に注意し、努力していたら褒めなさい」と言っています。

松岡璃映先生
松岡璃映先生

プロ・ダンサーを目指す生徒にはどういったご指導をされていますか?
伶子 日本の場合プロとして食べていくのが難しいのは仕方ありません。でも、せっかくやってきた訳だから、できるだけ長く続けてもらいたい。大勢の中で育つので一般社会でもやっていけるように人間的な成長をしてほしい。人間的に大人にならないと踊りも良くならないし、周りと上手くいかなければ長続きしません。
璃映 どんなに優秀でも最初から主役には付けません。コール・ド・バレエを何年か経験し大変さを知ってもらいます。ある程度の年齢になり、プロになりたいという話になると、無理な場合はっきり言います。留学はスカラシップをもらって行かなければ意味がありません。そのなかでも一握りしかプロにはなれない。うちにはプロになっている子がいるので後輩にアドバイスをしてもらっています。

出身者に国内外で活躍されている方が多いですね。
璃映 神澤千景や浅倉由美子(元モンテカルロ・バレエ)、佐藤智美(元スコティッシュ・バレエ)、大岩千恵子(元バレエ・インターナショナル・インディアナポリス)、増田杏子(元オーランド・バレエ)、市橋万樹(元ルイヴィル・バレエ)、山口義正(元Mainfranken Theater Würzburg)らがいます。田中ゆう子(元東京バレエ団)や佐々部佳代(Kバレエカンパニー)も出身者です。

彼ら彼女たちは他の生徒と、どう違いましたか?
璃映 やっぱり資質が良く、その上で努力する。
伶子 努力型ですね。大岩なんか特にそうです。最初は河合佑香(1996年ローザンヌ国際バレエコンクール・スカラシップ賞)の陰に隠れていました。
璃映 大岩は長い間コンクールで賞には入らなかった。それでもコツコツと稽古し続けて花開きました。

本部スタジオ内
本部スタジオ内

先ほど男性が絶えずいるというお話がありましたが。
伶子 いつも男の子がいるからゲストが来る前に練習もできるし楽でしたね。私が踊っていた最初の頃、小林功さん(小林紀子バレエ・シアター代表)に、きちんとパ・ド・ドゥを教えて頂きました。だから、いい加減なパ・ド・ドゥをやっている人を呼んだりはしていません。故・遠藤展弘さんをパートナーに迎えて踊りましたし、赤城圭さん(谷桃子バレエ団団長)に来ていただきました。大寺資二(長年バレエ団で主役を務めた)は学生の頃タレントセンターから『くるみ割り人形』の客人役として来たんですよ。スタイルがいいので私がバレエを勧めました。
璃映 男性のクラスは私が見ています。基礎は女の先生が教えたほうがきっちりできることが多い。難しいテクニックになった時に男性に教えてもらいます。高校生くらいまでは私が教え、そこから先に関しては男性団員が教えています。

-公演活動のこと~古典から創作まで~-

バレエ団公演では古典全幕から創作まで多彩な演目を上演されています。
伶子 名古屋で全幕公演を一般の方に観ていただきたくて古典を上演しました。しかし、ボリショイ・バレエの来日公演で『白鳥の湖』第3幕を観て「これが本当の貴族の世界だ」と感じたんですよ。私たちが頑張ってもたどり着けない。だから日本人としての作品を創ってみようと。最初に『舌切雀』を創り、続いて「鶴の恩返し」を『鶴』としてバレエにしました。日本人にはこの方が合うとつくづく感じました。

ストラヴィンスキー曲による『火の鳥』『春の祭典』、童話を基にした作品等、松岡先生ご自身の創作について、もう少し詳しくお聞かせください。
伶子 『火の鳥』は谷桃子バレエ団でやっていましたが、ストラヴィンスキーの音楽を聴いて私にはリンゴを持って遊んでいるお姫様のイメージが浮かばなかったんです。ストラヴィンスキーの生涯には戦争が絡んでいます。舞台装置を木にもライトが当たると原爆にも見えるようにして戦争の物語にしました。『春の祭典』は国造りの物語にしました。イザナギやアマテラスといった日本の古代の神々が出てきます。水上勉先生原作の『ブンナよ、木からおりてこい』は輪廻、弱肉強食の世界です。戦争に対する恐怖を自分も経験しているので、そこから出てくるんだと思います。『走れあまんじゃく』では歌も入れて作りました。四角い台を石垣や門、山に見立てました。再演したいのですが楽譜が無くなりました……。

松岡伶子バレエ団「あゝ野麦峠」【撮影】むらはし和明
松岡伶子バレエ団「あゝ野麦峠」【撮影】むらはし和明

創作といえば1988年にバレエ団創立35周年記念公演として上演された『あゝ野麦峠』はバレエ団の代表作として再演を重ねています。戦前、飛騨の農家の娘たちが野麦峠を越えて長野の製糸工場に勤めた、いわゆる「女工哀史」です。声を大にして反戦云々等が語られてはいませんが、ここでも戦争への怖れが感じられます。
伶子 ずいぶん昔「糸を紡ぐ娘たち」という芝居を観てバレエにしたいと思いました。山本茂実先生の原作を読み凄い作品だと感じました。衣裳をどうするか問題でしたがレオタードが進化してようやく創ることができました。飛騨~岡谷の物語なので岐阜出身の藤掛廣幸先生に作曲をお願いし乗り気になっていただきました。糸紡ぎの場面では、ゆっくりと糸を巻く振付にしました。頭からテーマを言うのは好きではありません。チャップリンの「モダン・タイムス」等の影響もあります。冒頭と終りに鹿鳴館の舞踏会が出てきますが、貴族は女工が苦労して作った生糸を売って豪華な生活をしていることが伝わればと思います。2年前10年ぶりに再演し好評でした。若い人に時代背景を最初から説明しなければならず大変でしたが。

平成5年(1993年)以降、秋の定期公演に加え夏にアトリエ公演(旧・新人公演)を続けられています。
伶子 子供の発表会と大人の公演の間の位置づけです。下の子たちを中心にパ・ド・ドゥとかもやらせて勉強させたいねと。それから今ほど盛んではないですがコンテンポラリーも出てきました。新しい雰囲気ある作品もやっていけばいいのではと思いました。最初に振付をお願いしたのは島崎徹さんです。
璃映 島崎さんがカナダから帰ってきて最初に作品を創る時、パートナーの嘉子さんの相手役にバレエ団の大寺を指名しました。うちのスタジオでリハーサルしているのを観て作品を依頼しました。その後「全日本バレエ・コンクール」に大岩と河合が出た時に創作の振付をお願いすると「あの人は誰!?」と評判になりました。

島崎さんのどこに注目されたのですか?
伶子 「この人ならなんとなくいいものを創ってくれるのでは…」と思って直感でお願いしました。
璃映 感覚ですね。日本人の作家とは作り方が違う。ローザンヌのコンクールで河合のために振付してもらいました。それでヨーロッパでも注目されるようになりました。「松岡バレエには足を向けて眠れない」といつも言ってくださいます(笑)。

他にも石井潤さん、深川秀夫さん、篠原聖一さん、坂本登喜彦さん、下村由理恵さん、石川愉貴さん、井上勇一郎さんらの作品を取り上げています。昨年と今年は団員の中弥智博さんが振付を行いました。制作担当は璃映先生ですよね?
璃映 1回目からです。いい人はいないかな?とアンテナを張っていますが、当初から団員で何か創らないかと話はしていました。でも皆尻ごみしてしまって……。名古屋の新聞社の方にも言われましたが作家も出てほしい。2012年にやっと何人か手を上げ始めました。どんな作品になろうと、何を言われようと、やっていかないと成長しない。中弥は、いずれ海外でも勉強して振付をやっていきたいそうです。

松岡伶子バレエ団「ロミオとジュリエット」【撮影】むらはし和明
松岡伶子バレエ団「ロミオとジュリエット」【撮影】むらはし和明

-バレエ団の展望-

バレエ団の今後の展開をお聞かせください。
璃映 今後も古典の大作もやっていきたい。それを続けていく大変さもありますが今まで通りにやってダンサーの底上げをしていく。それから生徒を東京なり海外なりに出していきたい。卒業した子たちが後輩の面倒を見る循環があります。
伶子 こじんまりでもいいので、きちんとしたものを創れるバレエ団でいたい。キーロフ・バレエのプリマだったナターリャ・ボリシャコーワ先生に教えていただいた『白鳥の湖』では、第2幕のコール・ド・バレエの顔がなぜ内を向いているのか、4幕ではなぜ外に向いているのかが、きちんと教えられている。手の使い方、上体の使い方一つとっても学びました。それをどんどん広げていきたい。
璃映 せっかくいただいた財産を取り崩さず伝えていきたいと思います。

 

 公演情報 

松岡伶子バレエ団公演
「くるみ割り人形」 全二幕

2014年12月7日(日) 午後5時00分開演
会場:日本特殊陶業市民会館 フォレストホール
詳細はコチラ ⇒ 松岡伶子バレエ団HP

img-909143056-0001